日高晤郎さん死去!死因は?出身や経歴・葬儀予定と後番組についても

突然の日高晤郎さんの訃報がラジオから流れてきておどろきましたね!

「4月3日 午前10時48分 永眠いたしました。」とのことで、74歳だったんですね。今時の74歳なんてまだまだこれからって歳なのに・・・

道産子の私も長年「ウイークエンドバラエティ日高晤郎ショー」とともに過ごしてきましたが、驚きと悲しい気持ちで一杯です(;;)

晤郎さんが元気なうちに晤郎さんの「紺屋高尾」の語りを聞いてみたかったなぁ

ウイークエンドバラエティ日高晤郎ショーがはじまったのが1983年(昭和58年)、それから35年間、ついこの間まで休まずにやってこられました。

私もそれなりの歳なので日高晤郎ショーが始まったのでは、就職したころなんですよね

晤郎さんは、ちょっときつい言い方のところもあったりして、アンチ派の人もいたのでしょうが、根底には暖かさや優しさがたくさん感じられました。

道民の大部分の方はそのあたりのことはよくわかっていて、みんな晤郎さんファンだったのではないでしょうか?

今回は、そんな日高晤郎さんについて「日高晤郎死去の死因は?出身や経歴・葬儀の予定なども!」と題してお送りしたいと思います。

新しい情報があれば逐次更新して行きたいと思いますのでよろしくお願いします。

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日高晤郎さんの死因は?

日高晤郎さんの死因は、悪性腫瘍(脂肪肉腫)ということです。


脂肪肉腫(しぼうにくしゅ 英:liposarcoma)は悪性軟部腫瘍(軟部肉腫)の一種で、脂肪細胞に似た腫瘍細胞が増殖するものである。世界保健機関(WHO)の組織型分類で5種類の組織亜型に分けられており、型によってその予後は大きく異なる。悪性腫瘍の中では軟部腫瘍自体数が少なく珍しいが、軟部腫瘍の中では脂肪肉腫は20%ほどを占めており、悪性線維性組織球腫(MFH)についで多い。組織的には脂肪芽細胞の存在が特徴となっている。よく似た名前の「脂肪腫」は良性の腫瘍であり、脂肪肉腫とは別のものである。

つい最近まで「生きる死ぬの病気じゃない」って言ってましたし、タマタマを片方だけとか言って笑っていたのに

いま思えば、前々回の放送ではなにかとても苦しそうで、日高晤郎ショーのスタッフや関係者の方達が気を使う様子や、晤郎さんをフォローするのが聞いていてよくわかって、これはふつうじゃないと思ってネットでググって見たのですが、そのときは何もヒットせず、ほんとうに大丈夫なのかな?・・・と思っていました。

最近、ラジオを休んだときに精巣腫瘍を摘出されたようで、腹水もたまっていて大変だったようですね

そのときのラジオの様子を聞いていて、私はなんだか「STVっていい会社なんだなぁ・・・」って思ってしまいました^^;

きっと、ああいうのって北海道民のメンタリティなんじゃないかなぁ・・・と思います。

出身や経歴

簡単なプロフィールとしては
・星座は、うお座
・血液型は、A型
・好きな色は、虹色
・趣味は、仕事(日高晤郎ショー)
・特技は、オムレツを作ること
・宝物は、師である勝新太郎さんとの写真(1994年・日高晤郎ショー雪まつりホール公開にて)
・好きな食べ物はお寿司
・好きな言葉は、「良く笑えた日は佳い一日だ」

生まれは、大阪府 大阪市 西成区

もともと俳優から芸能生活が始まった方ですね
昭和35年 大映京都撮影所演技研究会に第2期生として入所
昭和36年 17歳のとき「江戸へ百七十里」にて市川雷蔵の相手役でデビュー。「樅の木は残った」「駿河遊侠伝シリーズ」など40本に出演。

よく、番組内でも市川雷蔵や勝新太郎のことを「先生」と呼んでいましたよね

そして、以下のように時代劇も含めて多くのTVドラマにも出演されていました。

・あゝ同期の桜 第5話(1967年、NETテレビ)
・プレイガール 第22話、第60話(東京12チャンネル)
・江戸川乱歩シリーズ 明智小五郎 第19話(1970年、東京12チャンネル)
・さすらいの狼 第23話「幕末ガンマン」(1972年、NETテレビ)
・荒野の用心棒 第28話「虐殺の丘に女の復讐が燃えて…」(1973年、NETテレビ、蒲生竜之進役)
・ロボット刑事 第25話「兇悪ガトリングマンのバドービールス作戦!!」(1973年、フジテレビ、バドー戦闘工作員 Y8役)
・新書太閤記(1973年、NETテレビ、斎藤龍興役)
・元禄太平記(1975年、NHK、片岡源五右衛門役)
・特別機動捜査隊[13](1976年-1977年、NETテレビ、日高刑事、田代刑事役)
・快傑ズバット 第5話「花売り少女と白い粉」(1977年、東京12チャンネル、必殺ハスラー役)
・人形佐七捕物帳 第15話「火事を出した幽霊」(1977年、ANB)
・桃太郎侍 第48話「黒い鼠に数え唄」(1977年、NTV)
・刑事犬カール 第2話(1977年、TBS)
・消えた巨人軍 (1978年、NTV、ナレーション)

また、声優としても007シリーズの「ロシアより愛をこめて」や「ゴールドフィンガー」では、ジェームスボンド(ショーンコネリー)の声を担当していたこともありますし、メガネのプリンスのCMなども記憶に新しいところですね!

葬儀の予定など

葬儀については密葬とのことで、近親者のみで行われる予定とのことです。

後番組などについて

後番組については、4月14日から「ウィークエンドバラエティ日高晤郎ショー フォーエバー」(土曜前8・00〜後1・50)と題し、番組スタイルをそのままに“継続”すると発表されました。

同局の吉川典雄アナウンサー(43)らが出演し、STVラジオ第1スタジオから公開生放送される予定です。

まとめ

さて、ここまで「日高晤郎死去の死因は?出身や経歴・葬儀予定と後番組についても!」と題して書いて来ましたが、急なことでまだ後番組についての情報もないようです。

引き続き、新しい情報があれば更新して行こうと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました!

「日高晤郎さん死去!死因は?出身や経歴・葬儀予定と後番組についても」への2件のフィードバック

  1. こんにちわ。細谷新吾君が「日高晤郎」さんとは今しがたこの記事をみて知りました。小中学校ともに学んだ仲です。小学校は「東少路」中学校は「東生野」です。自宅にも良く遊びに行きました。

  2. コメントの補足です。
    細谷新吾君の卒業されました小学校の正式名は「大阪市立東小路小学校」で生徒間で使われていました「東少路」は俗称です。中学校につきましてはその頃の東小路小学校生はほぼ全員「大阪市立東生野中学校」俗称「いくちゅう」に進みましたがその後の卒業生は新設されました「大阪市立新生野中学校」に進学いたします。細谷君は小学校卒業[1956年]と同時にクラスの同窓会「一優会」[会長村田利明君]に属しその当時でも容姿の良さはクラス全員 認めるところでもありました。細谷君への思い出は小学校当時のものは写真も含め少なからずありますが今思えば中学校での記憶はなく小学校の記憶が重複されていたのかも知れません。ちなみに東生野中学校の同窓会名簿を調べましたところ「細谷新吾」君の名前はありませんでした。

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